米国戦略爆撃調査団報告:広島と長崎への原爆投下の効果

そのB 放射線症、日本の士気、降伏への決断


(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/
large/documents/index.php?pagenumber=24&documentid=65&documentdate=
1946-06-19&studycollectionid=abomb&groupid=



註: 通常訳する時は自分のメモを入れながら翻訳し、あとでメモは外して仕上げるのだが、この米国戦略爆撃報告は、メモを入れたままの方が敢えて親切と考え、このままアップロードすることにした。読むのが煩雑になると言うマイナスは目をつぶることにした。(*)部分が私が自分のためにいれたメモである。もちろん読み飛ばしてもらって構わない。

註: 原文にはないタイトル中見出しを入れた。読み手の負担を少しでも軽減するためと、部分部分の主要な話題を提示するためである。原文にはなく、私が入れたタイトル・見出しは青色にしてある。

註: 米国戦略爆撃調査団―U.S. Strategic Bombing Surveyのは報告は何度か行われている。太平洋戦争に関して主要なものはこの1946年6月30日付けの「ヒロシマとナガサキ」報告と、1946年7月1日付けの「太平洋編」の報告書であろう。いずれも要約報告である。太平洋編の完全な報告書は翌1947年に完成提出されている。

註: ここに訳出した、「米国戦略爆撃調査団報告 広島と長崎への原爆の効果」は、1946年6月19日付けのものである。これはドリバー団長がトルーマン大統領に提出した下書き版でドリバーは、トルーマンにこの19日版を見せてから30日版を完成提出した。

註: 長文にわたるため分割して掲載することにした。


米国戦略爆撃調査

広島及び長崎の原子爆弾投下の効果
(The Effect of the Atomic Bombing of Hiroshima and Nagasaki)

何も分かっていなかった急性放射線症
放射線症
 生存者で見る限り、放射線の影響は、第一次核分裂生成物の誘導放射能(induced radio-activity)や核蓄積物の残留放射能(lingering radio-activity)よりも核分裂の仮定で放出されるガンマ線の影響の方が大きい。

(* この報告書では単に放射線症-Radiation Disease-と呼んでいるが、今日ではレントゲンなどの放射線を徐々に被曝して起こす症状を指すことが多い。大量の放射線を浴びて起こす症状はこうした放射線症と区別して急性放射線症-Acute Radiation Disease-という。この報告書でいう放射線症は明らかに今日でいう急性放射線症のことである。またガンマ線の被曝が主原因とも取られる記述であるが、誘導放射能や残留放射能も大きな影響を与えることが今日では分かっている。http://mext-atm.jst.go.jp/atomica/09020301_1.html に詳しい。またこの報告書では放射能をradio-activity とハイフネーションで記述しているが、今日英語ではradioactivityとハイフネーションをしない表記になっている。)

 広島においても長崎においても核分裂物質が直接蓄積した場所ではポケット線量計は反応したものの、そのような場所では人的損害を引き起こすには不十分な程度の放射能だった。

(* 実はこの記述の「ポケット線量計」がわからない。原文では単にpocketsとしてある。ポケット線量計ならa pocket dosimeterでなければならない。しかしここはポケット線量計と理解しなければ意味が通じない。pocket dodimetersをpocketsと言う言い方があるのだろうか?参考にここの原文をそのまま引用しておく。
 Both at Nagasaki and at Hiroshima, pockets of radio-activity have been detected where fission products were directly deposited, but the digree of activity in these areas was insufficient to produce casualties.)


 同様に中性子と物質の相互作用から発生する誘導放射能が致死につながると確実にいえる証拠は見つからなかった。しかし爆発後数週間たって影響のあった地域を連合国の誰も観察していなかったにも関わらず、ガンマ線による人体への損傷の証拠は見られた。なおここでいうガンマ線は一般的な意味で使っており、すべての高周波放射線や中性子なども含んでいる。

 放射線による人体への損傷に関する我々の理解は不完全なものである。幾分、動物の体内組織に対して放射線がいかに影響するかについては、基礎知識は持っている。マンハッタン計画のロバート・ストーン博士の言では、
 「生体組織に対する放射線の作用に関する基礎的なメカニズムは分かっていない。従って治療の方法論はすべて、原因療法的というより対症療法的である。(symptomatic rather than specific.)このため、放射線の作用の基礎的性質に関する踏み込んだ研究は、ある程度まで進んだものの、第二次世界大戦中得られためざましい結果は、不幸にも極めて限定されたものであった。」

(* まずストーン博士から。これは間違いなくロバート・スペンサー・ストーン-Robert Spencer Stone-のことだろう。医学博士、法学博士でもある。次のURLに詳しい。http://www.jhowell.com/tng/getperson.php?personID=I129&tree=1#sources このURLでは、マンハッタン計画に大きな功績があったとして、エンリコ・フェルミ、ハロルド・ウレイ、サミュエル・アリソン-シカゴ大学冶金工学研究所所長、シリル・スミス-ロス・アラモス研究所で原子爆弾の核分裂物質の準備にあたった責任者、と共にレスリー・グローブズから勲章を授けられているストーン博士の写真が見られる。
            
 マンハッタン計画の一環として、戦争中シカゴ大学の冶金工学研究所では放射線の影響を研究するため外傷性脳損傷に関する実験をしていたらしい。マンハッタン計画保健部(Health Division)の責任者がこのロバート・ストーンだった。45年当時ストーンが責任者だったかどうかは分からないが、48年には確実にそうだった。先ほどの記念写真は45年3月に撮影されているから、45年当時ストーンが責任者ではなかったとしても、人体に対する放射線影響研究では第一人者だったことは間違いない。しかし、45年当時この研究はほとんど進展を見せなかった。また若干の研究成果も、原爆開発計画が漏れるのを恐れて、軍事機密として患者にも何も教えなかったという。1948年当時は、戦時組織だったアメリカ政府の、核兵器を含めた原子力エネルギー開発プロジェクトは米原子力委員会に移管されており、ストーンはそのマンハッタン計画の保健部の責任者だった。この時グローブズはすでにスペリー・ランドの副社長になっており、この計画から去っている。ストーンは48年当時こんなことをいっていたそうだ。「患者からは確かに署名入りの(実験)同意書を取りつけていない。しかし彼等は完全な理解のもとに治療を受け入れていた。」しかし同時に「人体全体への放射線照射はマンハッタン計画が興味をもっており、このこと自体は秘密事項である。」ともいっており、患者が完全な理解をしていた、という言い分は、同意書を取りつけていないと言う事実とも相まって苦しいいいわけにしか聞こえない。なおこのいきさつについてはACHRE REPORTに詳しい。http://hss.energy.gov/healthsafety/ohre/roadmap/achre/chap8_3.html )


白血球の減少、骨髄の退化、粘膜の炎症

 日本側によれば、爆心地にいた人たちで閃光火傷や二次負傷を受けなかったが、2−3日以内に容体が悪くなった人たちがいた。出血を伴った下痢が続き犠牲者のうちあるものは発症してから2−3日で亡くなった。大部分は1週間以内に亡くなった。検死の結果、血液像(blood picture)に著しい変化見られ、白血球がほとんどなくなり、骨髄の悪化(deterioration of bone marrow)が見られた。また喉、肺、胃、腸の粘膜(mucous membranes)は急性の炎症(acute inflammation)を起こしていた。

 さらに遠く離れた(地域に)いた人の大半は、爆発の1週間から4週間の間は、深刻な症状を見せなかった。とはいえその後ずっと弱まったり、虚弱になったりはしていた。1日か2日の軽い吐き気や嘔吐(mild nausea and vomiting)のあった後、食欲が回復し気分が良くなるのだが、ずっと後に本格的な症状があらわれた。日本の医師たちの意見では、(このような人の中で)休息を取ったり体力をより消耗しなかったりする人たちは、本格的な症状が発症するのにより長い期間がかかった。再発の最初の兆候は食欲減退と倦怠感、それに漠然とした不快感である。歯茎、口、咽頭(pharynx)の炎症がそれに続く。12時間から48時間以内に発熱がはっきり見られる。多くの例では熱は華氏100°(摂氏37−8° C=5/9(F−32))までしか上がらず、2−3日すると下がる。他には体温が華氏104°から106°(摂氏40°から41°)まで上がるケースもある。熱の出方は明らかに放射線被曝の程度に直接関係している。いったん進行すると、熱はずっと高いままで、やがて死亡するまで続く。もし熱がさがったら、他の症状は急速に消え去り、健康を回復したような良い気分を取り戻す。通常その他の症状としては次のようなものがある。白血球の欠乏、脱毛、歯茎の炎症または壊疽、口と咽喉の炎症、下部消化器の潰瘍(ulceration of lower gastrointestinal tract)、ちいさな青黒い痣(点状出血)(petechiae)、これは粘膜や皮膚組織に血がたまるために起こるものだが、歯茎・鼻・肌へのさらに大きな出血。

 脱毛は、いくつかの例で被曝の後4−5日で見られたと言う報告はあるものの、通常2週間後にはじまった。これに関係する部位を、被曝の程度によって並べると次のようなものになる。頭皮(scalp)、腋(armpits)、あごひげ、陰部(pubic region)、眉。完全な脱毛はまれである。体の関係部位を顕微鏡で研究すると毛嚢の萎縮(atrophy)が見られた。生存者のうち2ヶ月後の患者の中には再び(毛が)生え始めたものもいた。興味深いがまだ未確認の報告では、黒い髪の人より白髪の人の方が脱毛はより顕著でなかった。

 循環血液中の白血球の数の減少は、放射線病に常に付随している。他に放射線の影響が見られない軽い場合でも(白血球の数の減少は)見られる。白血球減少症(leukopenia)の程度は恐らくその人が被曝した放射線のもっとも正確な指標となるだろう。通常白血球は5000個から7000個である。白血球減少症ではこれが4000個以下になる。さらに重篤なケースではこれがゼロから1500個のあたりになる。これは骨髄がほとんど完全に消滅したのに等しい。中程度重篤のケースで骨髄退化の証拠があり、白血球は1500個から3000個。それよりさらに軽いケースで白血球が3000個から4000個、このケースでは骨髄が若干退化変質している。赤血球を形成するシステムの変化はその後で進行するのだが、同様に深刻である。

 まだどのくらい影響するかははっきりしていないものの、放射線は明白に再生に影響を与えている。生殖不能症(sterility)は日本全体に見られるが、特にここ2年間の状況の下ではこれが当てはまるのだが、広島と長崎では放射線(被曝)に原因を帰すべき増加の兆候がある。爆心地から5000フィート(約1500m)以内にいた男性の3ヶ月後に関する精子数あるいは完全な無精液症。

 (* 奇妙だがここは文章になっていなくて体言止めになっている)

 放射線病で死にかけているケースでは精子形成(spematogenesis)に明白な影響が見られる。放射線による被害者の検死で、卵巣に関する研究はまだまとまっていない。しかし、妊婦に関する原子爆弾の影響については注目している。爆心地から3000フィート(約900m)以内にいた妊娠の様々な段階にいた婦人は、知られているすべてのケースで流産(miscarriages)した。6500フィート(約1590m)までですら流産するかまたは未熟児だった。未熟児は生まれるとまもなく死亡した。6500フィートから1万フィート(約1590mから3000m)までのグループでは1/3が明白に普通児だった。(原爆の)爆発後2ヶ月目、広島市の流産、堕胎、未熟児の発生率は27%だった。通常では6%である。放射線被曝意外の要素がこの発生率を上げているから、(人口)再生産における大量被曝の影響を突き詰めるには、1年間の通したデータが必要である。


「原爆の皆殺し効果と陰険なガンマ線」

 日本側による犠牲者の治療には、医療品や医療施設の欠乏などの理由により限界がある。彼等の療法は少量のビタミン剤、肝油、そしてときおり行われる輸血などから成り立っている。連合国の医師はペニシリンや血漿(plasma)を使用しており、有益な効果を上げている。肝油は投与された患者のうちいくらかは効果があるように見える。手に入る時には投与するが、それもあまり頻度が多くない。死亡者の大きな部分は二次的な疾病、敗血性気管支肺炎(septic bronchopneumonia)や結核(tuberculosis)などで占められている。抵抗力が低下している結果である。放射線による死亡は被曝のおよそ1週間後にはじまり3−4週間後にはピークを迎えた。7―8週間後には、事実上(放射線による死亡は)止まった。

 不幸にして、放射線のいったい何が人を殺す力なのかが分かっていないし、コンクリートの種類や厚みについても満足のいく答えは見いだせていないし、人々を防御すべき土もなかった。合同委員会(* 医師団による原爆調査合同委員会のこと)によるもう少し特定した報告がこれらの案件についてほぼ精確にちかいことを述べてくれるだろう。その間しばらくは、原子爆弾の恐るべき皆殺し効果とガンマ線という余計で陰険な災危自身に語らせておく他はない。

(* この報告書の中で初めて人道主義的な立場から原爆を眺めている言葉を聞いたような気がする。この書き手は原子爆弾の、awesome lethal effects と表現し、放射線症についてはinsidious perilと表現している。これがまともな感覚だ。)

 もし原爆投下による爆風と火災の影響が全くなかったと仮定しても、爆心地から半径1/2マイル(約800m)における死者の数は実際の死者の数と同じくらい大きかっただろうし、また1マイル(約1600m)以内の死者は実際の死者の数より若干少なかったに過ぎないと信ずべき理由がある。主要な違いはいつ死亡したかと言う問題だけだろう。これらの犠牲者(victims!)は、無条件に死亡する替わりに、2−3日あるいは3−4週間生きながらえることが出来たに過ぎない。事実上は、放線病によって死ぬだけだったのだから。

(* 突然この爆発するような文章に接して私はとまどった。いったい書き手は何が言いたいのか?大体爆風も起こらない、大火災も発生しない原爆などとは仮定の問題としても意味がない。しかし読み進むうちに書き手の気持ちを了解した。この書き手は明らかに怒っている。長崎や広島で死んだ人をvictims―犠牲者、被害者、と呼び放射線病-急性放射線症-で亡くなった人たちを悼んでいる。火災で死んだ、がれきで死んだ、火傷で死んだと分類して見ても何の意味がある?どっちみちみんな殺し尽くしてしまうのではないか、と本当は言いたいのだろう。
 次のトルーマンの脳天気な言葉と較べてみよ。
 「(原爆投下の)私の目的は、できるだけ多くのアメリカ人の命を救うという点にありますが、日本の子どもや女性に対して人間的な感情も同時にまた持ち合わせるものであります。」(1945年8月9日付け、ラッセル上院議員に対する返事の一節。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/russell.htm )

 フランク・レポートは第3章「予期される合意」の中で次のようにいっている。
「(毒ガス兵器と)同様にもしアメリカの国民が核爆発物の影響を正しく知らされていたなら、一般市民の生命を完全に壊滅するような、そういう無差別な方法を講ずる最初の国がアメリカであることを決して支持しないであろう。」「フランク・レポート」http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/flanc_report.htm 

 私もまたそう信じる。)


「それでも10%は救えたかも知れない」

 これらの仮定は生々しい重要性(vital importance)をもっている。というのは実際に長崎でも広島でも多くの人々が爆風や火災からは建造物などで保護された。しかしガンマ線の影響からは何も保護できなかったからである。放射線熱やガンマ線に対して防御する必要性が、(原爆に対する)シェルター保護の問題をさらに複雑にしているのである。幸いにして土やコンクリートがガンマ線に対して防御効果があることが分かっている。必要な厚みは放射線の強さによる。

 日本側による、犠牲者に対する遅れ遅れの不適切な治療が、恐らくは高い人的損害率につながっている。原爆の後すぐに医療施設、医療用品、医療人員が手当できたなら疑いようもなく多くの人たちを救えたろう。恐らくはまともに爆風を受けたり、火炎負傷で死亡した人の数、崩壊する建物の下敷きになって深刻な負傷を負った人の数は大きく違わなかったかもしれない。一般的にいってこれらのケースでは無条件で死ぬかあるいは生き残るかだったのである。(しかし)多くの閃光火傷の場合は、被爆の2−3時間以内に適切な治療を開始しておけば、大量の血漿や点滴(parenteral fluids)などで、多くの人を救えただろう。またもっともめざましい効果を発揮したのは放射線病のケースだったろう。大量の血液と適切で効果的な治療があれば、放射線で亡くなった人のうち10%から20%は生存できたかも知れない。しかし、たとえ最高の医療手当を受けたとしても、原子爆弾死亡者全部の10%が死から免れ得たかというと疑問である。5%から8%と言うところが近いだろう。

 (* これで「放射線症」の項が終わっている。)


心と体の傷に目が向かない調査団報告

2.士気

 あるいは予期していたように、原爆に対する最初の反応は恐怖である。それも制御しがたいおののきである。生存者たちが経験し目撃した苦しみあるいは破壊がもたらす絶対的な恐れによって強化されていった。広島と長崎で聞き取りを行った人のうち1/2から2/3までがそのような反応を告白している。それもその時(原爆投下の時)だけではなく、その後ももった反応である。2人の生存者は次のようにいっている。
その後飛行機を見るとみんな急いでシェルターに飛び込みました。食事をする時間もないように出たり入ったりしました。とても神経質になって仕事も手につきませんでした。」
原爆が落ちた後は、家にいることが出来ませんでした。料理しているとしましょう。料理をしている間中、ずっと外を見続け自分のそばに原爆が落ちてくるのではないかと心配でした。」

 すでに述べたように、原爆の後の人々の生活態度は明らかに救いようのないほどのショック状態を示している。ある長崎の生存者は十分に生存者の雰囲気を伝え次のように描写している。
私の見たものは閃光だけでした。自分の体が暖かくなるのを感じ、そしてすべてのものが飛び回っているのが見えました。私の祖母は屋根から落ちてきたものが頭にあたり、血を流していました。私はそれを見てヒステリー状態になり、私たちはどうしていいのか分からずただそこら中を走り回りました。」
私は事務所で働いていました。窓のところで同僚と話をしていました。町中が一つの大きな炎になったのを見ました。それから身をかがめました。ガラスの破片が背中や顔に当たりました。私の衣類はガラスでずたずたになりました。それから立ち上がり、頑丈なシェルターのある山の方へ向かって走りました。」


 2つの典型的な衝動が見られる。無目的、ヒステリーですらある。またはシェルターや食べ物を求めての市内からの脱出である。

(* たわごとである。こんな分析や記述はまったく無価値なたわごとである。人々はかつて人類が経験したことのない非人道的、残虐な行為に直面したのである。そして体だけでなく心に深い傷を負った。この調査団の書き手はまったくその点に目を向けていない。通常の戦闘員の心理状態や行動様式で判断しようとしている。攻撃を受けたのは、女性、子供、老人を含む非戦闘員なのだ。一般市民なのだ。ここで引用されている話は、私には人類がかつて行ったもっとも非人道的で残虐な行為の犠牲者が心と体に受けた深い傷の告白としか読めない。もし今人道主義的な良識あるアメリカ人がこの文章の分析や記述を読んだなら、おそらく恥ずかしくて最後まで読めないだろう。)

 これら一連の原爆が持つ特徴的な効果は、驚愕や彼等の押し潰された力に由来するだけでなく、攻撃前の両市の住民たちが抱いていた安全性に対する感情にも由来している。

(* おそらく書いている本人も自分が何を言っているか分かっていないだろう。)

 長崎がそれまでの1年間に5回の空襲を受けたとはいえ、さほど大きな打撃は受けなかった。そして広島は1945年8月6日の朝まではほとんど無傷だった。両方の市において多くの人たちは、自分たちは(空襲から)除外されていると感じ、そして幅広い希望的観測の気持ちを裏付けるようないろんな噂が飛び交っていたのである。また多くのキリスト教徒もいた。

 AUSSBS士気調査部(A United States Strategic bombing Survey Morale division。*Moral divisionの間違いじゃないかと思うのだが。)のチームは、科学的に選別した、ほぼ250人にのぼる聞き取り調査を実施した。128人が広島と長崎から選別し、120人が直接両市に接している地域からである。また同じ基準の質問を用意して日本の代表的な都市と同様な地域に住む人々に対して実施した。

 多くの日系アメリカ人が広島からやって来た、広島市は有名な美しいところだった、こうした話やその他のまだ素晴らしい話がこうした希望を助長していた。他の人たちも彼等の町が偉大だから救われているのだと何となく感じていた。


報告書の非人道的な本質

 あの破壊的な出来事がこうした、人々の考え方に一撃を与えずにはいられなかった。戦争に対する人々の信じ方のパターンに関する研究は、原爆投下の前と後で、明瞭な変化があることを示している。原爆投下の前、この2つの投下目標都市に住む人々は、他の都市に住む人たちより戦争に対する不安がより小さかった。1945年7月1日以前、日本の民間人がどう感じていたかは以下の質問に対する反応でよく表されている。


日本の勝利に対する疑いを持っていた人は、
広島・長崎で59%
その他の都市部で74%
日本の勝利は不可能だと明確に感じていた人は
広島・長崎で31%
その他の都市部で47%
これ以上の戦争の継続は不可能と感じていた人は
広島・長崎で12%
その他の都市部で34%

 さらに、全体で日本の人の28%が戦争にこれ以上ついていけないと感じる点に逢着したことがないと言っている。これに対して広島・長崎の人の39%がそういう点に逢着したことがないといっている。

 こうした数字は原爆が落とされた市に住む人たちの方が、日本全体の人より抗戦しようという気持ちが強かったことを明らかに示している。

 広島と長崎に住む人々が敗北は不可避的だと考えるに至った決定的影響は原爆(投下)から受けたという点は疑いようがない。このほかに28%の人が原爆投下後、日本の勝利は不可能だと確信するに至ったと述べている。ほぼ1/4の人が原爆投下によって、個人的にも(戦争)継続は不可能だと感ずるに至ったと認めている。40%の人が原爆投下で様々な程度で「敗北主義」を誘発されたと証言している。極めて特徴的なことは、長崎より廃墟の範囲が大きくまた人的損害も大きかった広島の方が敗北に対する確信が顕著だったということだ。

 典型的には次の生存者のコメントである
もし敵がこのような形の爆弾を持っているのなら、みんな死んでしまう、ならさっさと戦争がおわればいいと思った。」
私はそれほど(原爆が)強力とは予想していなかった。そのような爆弾には手の施しようがないと思った。」
原爆で子供の一人が死んだ。もうどうなっても構わないという気持ちだった。」

 また別な反応も見られる。さして重要ではないが、彼等の経験に鑑みてある生存者たち(約1/5)は原爆を使用したアメリカ人を憎んで、「残虐」「非人道的」「野蛮」という言葉で怒りを表明した。

本当にアメリカ人を軽蔑する。みんな口々にもし幽霊があるのなら、アメリカ人のところへ化けてでよう。」
負傷者や死人を見たとき、敵に対して歯ぎしりする思いだった。」
原爆が炸裂した後、私は軍需工場へいって働かなくてはならぬと思った。私の息子たちは、大きくなっても原爆のことは決して忘れない、といった。」

(* むしろこれが非戦闘員である一般市民の自然な感情であろう。調査団の分析の方向は完全に誤っている。日本は負ける、戦争をしたくない、早く終わって欲しいと思う気持ちと原爆を残虐、非人道的といい、これを実行したアメリカ人を憎むと言う感情は決して矛盾しないのだ。根は一つである。この感情は、当然のことながらアウシュビッツで生き残ったユダヤ人がナチスに対して、南京で生き残った中国人が日本人に対して、朝鮮、中国、インドネシア、ベトナムで性奴隷にされ生き残ったそれぞれの国の女性が日本人に対して、持っているに違いない。だからといって彼等が好戦的だと言うことにはならない。彼等が、そして広島や長崎で生き残った人たちが求めているのは復讐や仕返しなのではなく人道と正義であり、二度とこうしたことが起こらない保障なのだから。)

 憎悪や怒りの反応は驚くにはあたらない。実際のところ数字が示すよりもこの感情はもっと幅広いものだといってもいい。というのはこの質問に対する回答者たちは、恐れや慇懃さを脱した形で、虚心坦懐に自身の感情を吐露しているわけではないからだ。この要素にもかかわらず、敵対感情の波は小さいように思える。回答者の2%は自ら進んで原爆を使用したことでアメリカを責めようとは思わないという所感を表明した。確かに日本が原爆をもてなかったことをいぶかしく思うという人もいたが、降伏の前であれ、後であれ、彼等の敵対感情が自国政府に向かって発せられている証拠もある。

(* 調査団の問題のつかみ方は、アメリカ対日本という枠組みからどうしても抜け出せない。問題の正しいつかみ方は、平和に暮らしたい一般市民対それを抑圧し戦争に駆り立てる権力、と言う構図だ。こうした市民にとってどこの国の政府であれ、戦争に駆り立てる政府は潜在敵なのだ。)

 多くの例で、反応は単純にひとつのあきらめだった。共通したコメントは「戦争なのだから、それはshikata-ga-nai。」


恣意的な収集データの解釈

 原爆に対する憧憬は怒りよりしばしば表明された。目標とされた都市とその周辺に住む人の1/4以上はその力とそれを発見し製造した科学技術力に対して感心すると表明している。

 さらに重要なのは、日本人全体の反応である。2つの原爆投下は全日本的事件であり、またそう意図されたものだった。連合国の戦力は、単に広島や長崎の人たちに止まらず、日本の人たちとその指導者の戦意を挫こうとしたものである。降伏の時に原爆のニュースは日本の隅々にまでつたわってはいなかったとはいえ、事実上すべての日本人が原爆に対して反応をしめす機会があった。この面接が実施される時まで、農村部人口のわずか2%、都会部のわずか1%の人が原爆のことを知らなかった。

 原爆を投下された町における反応はまた日本全体の反応でもあった。恐怖とおののき、原爆の使用者に対する怒りと憎悪、そしてさして大きくはないものの、その科学的業績への憧憬。

(* この項の書き手は原爆の使用-use-という言葉をよく使う。トルーマン政権内での用法では、原爆を政治的話題として取り扱うときにuse、軍事的話題として取り扱う時にはdrop、carryという用語を割と厳格に使用していた。だから暫定委員会では必ずuse against Japan だった。この項の書き手は原爆投下-the bombing-を政治的問題として扱っているという意識の表れか。)

 しかしながら、日本全体の戦争への姿勢という観点から見ると原爆の効果は、広島や長崎におけるそれと比較して遥かに低かった。広島や長崎における回答者の40%が敗北主義者的感情になったのに対して、日本全体では28%だった。この違いには最低でも3つの説明が可能であろう。第一、原爆投下以前から日本では(この戦争に対する勝利への)自信が低かった。戦争の勝利に対する疑念は、1945年7月1日までに、日本人全体の74%まで広がっていた。また同じデータで日本の勝利は不可能と確信するに至った人は47%で、またこれ以上戦争遂行について生けないと感ずる人は37%だった。このような状況の下で、新しくまた破壊的な兵器の発表は、すでに雄弁に語られている日本の弱点に関する、単に追加的証拠に過ぎなかった。二番目に、広島、長崎から距離を置いた人たちはすでに他の不幸や困難で、原爆の経験に対する反応が鈍らされていた。心理的距離は地理的距離と共に大きくなるという共通現象である。たとえば、日本全体では軍事的損失や失敗、たとえばサイパン島、フィリッピン諸島、沖縄、などの方が原爆より2倍の重要性を持って敗北に対する確信を深めさせた。こうした観点で見れば、日本全体では、日本への空襲の方が(原爆より)3倍も重要だった。消費物資の欠乏、たとえば食糧不足や栄養不足の方が、人々をこれ以上戦争についていけないという気分に導くのに、同様程度に重要だった。

(* マディソン・アベニューの広告宣伝屋の言説を読んでいるような感じがする。
 厭戦気分に導いたのにはいろんな異なった質の要素があった。原爆による悲劇もそうした要素のひとつだったことは間違いない。本来異なる質の要素を、無理矢理量化して同じ質を持った要素として比較している。どれがどれだけ大きかったと比較することは、何か特別な結論に導きたいのなら別として、意味があるとは思えない。はっきりいえることは、あの戦争が日本人全体にとって何が何でも戦い抜かねばならぬ戦争ではなかったということだ。人々は最後にはあの戦争が結局自らを抑圧する天皇制政府のための戦争だったことを鋭くまた狡く見抜いていた。またあの戦争が、国民全員の欲と二人連れの戦争であることをどこかで知っていた。資本家は資本家なりに、中産階級は中産階級なりに、貧乏人は貧乏人なりに、みんなそれぞれの思惑で、しかしみんなそれぞれの欲と二人ずれで戦争に自らを駆り立てていった。その欲が実現できない、それどころか自分の生命や財産が危ういと分かった時点では、どんな要素でも厭戦気分に結びついていったのである。
 もしあの戦争が欲と二人連れの侵略戦争ではなく、自らの故郷と家族や友人を守る祖国防衛戦争だったらどうだっただろうか?食糧が欠乏しようが、原爆が落ちようが、栄養失調になろうが、日本人全体としては戦争を耐えただろう。天皇を守る戦争は耐えられないが、自分の故郷や家族や友人を守る戦争なら人はどこまでも耐える。明るく陽気に耐える。)


 
原爆の人類史的意味が理解できない調査団

 三番目に、目標とされた地域から離れたところにいる人々には、この新兵器の意味を理解出来なかった。疑いようもなくこの新兵器のデモンストレーション効果が限定されていた。
 
(* なにか自分たちはこの新兵器の意味を理解しているような口ぶりだ。トルーマン同様、戦略爆撃調査団も「この新兵器」の人類史的意味を全く理解していなかった。

フランク・レポートは次の言葉で始まっている。
物理学の分野に置いて原子力(nuclear power)を特殊なものとして扱わなければならぬ、たった一つの理由は、その平和に及ぼす政治的圧力の手段として、あるいは戦争において瞬時に破壊をもたらす手段として、それがとてつもない可能性を持っている点である。」
そして次の段落を、
しかし今やわれわれ科学者は、同じ態度を取ることはできない。原子力の開発で達成した成功は、過去における諸発明をすべて合わせてもまださらに大きな危険を、永久に孕んでいるからである。われわれ全員、原子工学の現在の状態をよく知っているわれわれ全員は、真珠湾の何千倍もの惨劇に相当する一瞬の壊滅が、我々自身の国に、この国のひとつひとつの主要な都市に襲ってきている姿を目に浮かべながら、今日を生きている。」
と結んでいる。これが原子爆弾-核兵器の人類史的意味だ。)
        

 目標とした都市(広島と長崎)から距離が離れるに従って、原爆の持つ(日本人の)敗北主義に与える影響が著しく減少するのである。

都市群 原爆による「敗北に対する確信」の人口比率
広島―長崎 25%
目標にもっとも近い都市群 23%
目標に近い都市群 15%
目標から離れている都市群  8%
目標からもっとも離れている都市群  6%


 もっとも近い都市群、広島と長崎から40マイル(約64Km)以内にある都市群だけが「士気」に関して有意味な影響を与えていたことになる。もし日本におけるマスコミのチャンネルが確立しており、アメリカで見られるようにニュースが早く伝わる体制が日本でも確立していたとするなら、そして原爆の使用の持つ意味が日本でも強く知らされていたなら、戦争を継続しようという気持ちに対する原爆の影響は恐らくはさらにおおきかったであろう。

(* もうばかばかしくてやってられない。目くそ鼻くそを笑うとはこのことだ。原爆の恐ろしさが日本全国に伝わらなかったのは、軍国主義天皇制政府が厳しい言論統制を行い、そればかりではなく新聞統廃合を行って3000以上あった日刊紙を一挙に100近くまで減らして、都合のいいニュースしか流さなかったからだ。しかも朝日新聞や読売新聞は自社の利益のためにむしろ進んでこの政策に協力した。しかしアメリカの政府も形こそ違うが、同じことをやっている。アラモゴードの核実験場に有力マスコミの「一流記者」を集め、原爆では放射能汚染の心配はない、という一大デマキャンペーンを張った。また原爆投下後は南日本へのジャーナリズムの立ち入りを厳禁し、厳しい言論統制を敷いてアメリカの一般大衆から原爆の悲惨さの実態を覆い隠し、原爆反対の世論が起きるのを押さえ込んだ。そして日本における朝日、読売同様ニューヨーク・タイムズなど有力紙はこぞってこれに協力した。そして大成功を収めた。破廉恥とはこのことだ。
 この戦略爆撃調査団のここでの言い方をそっくり借りよう。
 「もしアメリカに本当のマスコミが存在していたら、実際にはそうではなかったが、そして原爆の恐ろしさを正しくまた迅速にアメリカの大衆に伝えていたなら、実際にはそうではなかったが、原爆のトルーマン政権に与えた影響はもっと大きかったろう。」)

 日本人全体の自信に対して原爆が与えた影響は極めて地域限定的だったという点は明白である。目標地域以外の地域では、それ(原爆の士気に与える影響)は、他の士気を挫く経験より下位に置かれていた。原爆が与えた影響は恐らくその人的損害の数や受けた負傷の性質などの大きく見られるのだろう。

(* 再び言うが、米国戦略爆撃調査団は原爆のもつ意味を全く理解していない。軍人としてもレベルが低い。優秀な軍人はアイゼンハウワーがそうであったように、軍事は政治の暴力的解決手段であることをよく理解していた。)

 これらの結論は、驚愕と急いで作った防衛システムの脆弱性(vulnerability)の一部として帰結したものである。適切に実施される警告、事前警戒、原爆の効果に見合った規模の緊急手当組織の存在などなどは、人的損害を減じ得たかも知れずまた従って原爆の(日本人の)士気に与えた影響も減じ得たかも知れない。

 目標とした都市に置いてすら、原爆が日本人の戦意を一様に挫いた訳ではないと言うことは強調しておかねばならない。広島・長崎と他の日本の諸都市を比較して見たとき、広島・長崎が平均より上回る敗北主義であったとはいえない。原爆は生存者にとって極めて大きい個人的なカタストロフであった。しかしこの個人的カタストロフの中に、「日本勝利への期待」や「交渉による和平への希望」を打ち砕く最後の一撃を見いだしたかというと、原爆の持つ革命的脅威への理解また時間軸の観点から見て、そうとはいえない。


冷静な分析―降伏への過程
3.日本の降伏の決定

 日本の指導者層に戦意及び戦争放棄の決定に与えた原爆の影響のさらなる問題は、その他の因子と密接に結びついている。原爆は、投下目標地域以外の各階層の民間人の戦意に与えたのより、日本政府の指導者層の考えにより大きな影響を与えている。しかしながら原爆が、降伏による平和必要性に影響力をもっている指導者層を得心させたかというとそういうことは出来ない。降伏への決断は部分的には、一般民衆の士気の一番低い状態に関する知見に影響を受けており、6月26日に天皇臨席のもとで開かれた最高戦争指導会議にその最初の決断を見ることが出来る。

 しかしもちろん政府関係者の影響力のある人たちの合意を得るには至らなかった。

 1944年の春までには、前・元首相たちと天皇側近の人たちがグループを結成し、戦争を終結に導こうという努力がなされていた。このグループのメンバーは岡田大将(* 詳しくは以下)、米内大将(* 詳しくは以下)、近衛殿下(* 詳しくは以下)、木戸侯爵(* 詳しくは以下)などを含んでいる。このグループは東条辞任に影響力を発揮し、小磯内閣崩壊の後鈴木大将を首相にした。

(* 岡田啓介海軍大将。2・26事件当時の総理大臣。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B
原文にはadmiralとしてあるので提督という訳語も考えられるが、当時米国海軍ではadmiralは称号ではなく階級だったことを考えると大将の訳語がふさわしい。)
(* 内光政海軍大将。1940年当時の総理大臣。詳しくは以下。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF#.E7.95.A5.E6.AD.B4
(* 近衛文麿。原文はPrince Konoye。3度総理大臣を務めている。戦前・戦中、日本支配層による最大のミスキャスト。詳しくは以下。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
(* 木戸幸一。昭和天皇の側近中の側近。戦前・戦中最大の日和見主義者。詳しくは以下。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80
(* 東条英機。陸軍大将。太平洋戦争開始時の総理大臣。軍人と言うより細かい事務屋だった。詳しくは以下。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
(* 小磯国昭。陸軍大将。東条辞任の後を受けて総理大臣。詳しくは以下。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD
(* 鈴木貫太郎。海軍大将。小磯の後を受けて総理大臣。日本はこの総理大臣の下でポツダム宣言を受け入れた。詳しくは以下。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E

 しかしながら、鈴木内閣の下でも、(戦争終結の決断に関し)内閣は全員一致というにはほど遠い状況だった。海軍大臣だった米内大将は戦争終結に同意していたが、陸軍大臣の阿南将軍は、「最後の一兵まで聖戦を完遂する」政策を代表していた。
(* 米内はこの時海軍大臣として内閣入りしていた。阿南将軍は陸軍大将阿南惟幾。
 ポツダム宣言受諾が決まったあと陸相官邸で割腹自殺を遂げる。なお陸軍大臣は原文ではWar Minister。また「最後の一兵まで聖戦を完遂する」政策は原文ではthe fight-to-the-end policy。)

 阿南の聖戦完遂の信念は、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長の最高戦争指導会議への参加で保証されたものとなったかに見えた。最高戦争指導会議は、一種の閣内会議のようなものだが、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が閣外からメンバーに加わっている。平和問題に関する限り、最高戦争指導会議はまっぷたつに割れることになった。和平賛成派は首相(鈴木貫太郎)、外務大臣(東郷重徳)、海軍大臣(米内光政)の3人だった。

(* ちなみにこの時の陸軍参謀総長は梅津美治郎、海軍軍令部総長は豊田副武だった。
 当時参謀本部を称したのは陸軍だけで、海軍は軍令部と称した。なお、この報告書では海軍軍令部総長豊田を徹底抗戦派と理解しているようだが、また表面そうであったには違いないが、単純に言い切れない面がある。詳しくは以下。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%89%AF%E6%AD%A6 )

 いつの時点でも軍部(特に陸軍)は内閣に不満であり、内閣を倒閣に追い込むことが出来た。そしてできることなら戦争継続反対派の閣内からの一掃も結果として招来しようとしていた。従って政府部内の和平推進派のリーダーたちが直面する問題は、陸軍大臣の躊躇と陸軍参謀総長と海軍軍令部長の反対を押さえて「降伏」の方向へ舵をきることにあった。

(* ちょっとここはおもしろい記述である。陸軍参謀総長や海軍軍令部長については和平推進反対、と言っているのに対して、陸軍大臣、すなわち阿南惟幾の態度はhesitationといっている。常識的には阿南は最後の最後まで徹底抗戦派だったと理解されている。調査団が当時の日本の政治情勢をつかみ切れていなかったのか、それともわれわれの気がつかない事実をふまえていっているのか。)


降伏への第一歩は6月26日御前会議

 しかもこれは、完全に和平グループを一掃しようとする陸軍のがむしゃらな(precipitating)反撃をさけて遂行されなければならなかった。これは究極的には天皇を事実上ポツダム宣言受諾の方向に引き入れることによって実現した。天皇が公然とそのような政策に対する支持を表明し、国に向かってその所信を披瀝するなら、軍部は反抗できなかった。天皇に対する絶対服従の観念を涵養しそれと共にやってきたのは他ならぬ軍部だったのである。

 そのような方向への第一歩が、6月26日の御前会議だった。その会議に置いて天皇は自分の役割を果たし、慣習を破って本土防衛に関する計画と共に戦争終結へ向けて進展させたいとする意向を述べたのである。これはそれに先立って行われたソビエトにアメリカとの仲介をしてもらおうという努力の焼き直し版をなぞったものだった。これに対する実効的な回答が7月26日のポツダム宣言であり、8月9日のソビエトの対日宣戦布告だったのである。

 原子爆弾は日本政府内でのこうした一連の政治的策略の実施(political maneuvering)を加速させるものだったと考えられる。これはそれ自身部分的には、士気に与える影響の一部だった。というのは閣内のメンバーがそれ以上の原爆投下を、特に東京の焼け残った部分に対する原爆投下を恐れていたという明白な証拠があるからである。

(* これは相当な書き手だ。余分な夾雑物をばっさり切り取り、話の本筋だけを明瞭にとりだし、生起した出来事の本質を衝いている。優秀な外科医の名手術を見るようだ。)


原爆は陸軍のメンツを救った

 原爆そのものは軍部をして、本土防衛は不可能と悟らせることは出来なかった。しかしながら、政府をして「武器のない軍隊がどうやって武器を持っている敵に抵抗できるんだ」と言わしめることはできた。このようにして原爆はいわば軍部指導者のメンツ(“face”)を救ったのである。それは決して日本の産業家たちの財産のことを考えた訳でもなければ、日本の兵士たちの武勇のことをおもんばかったためでもない。

 最高戦争指導会議での採決は依然として二つに割れた。無条件降伏を陸軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長の3人が受け入れなかったためである。しかしながら広島、長崎への原爆投下が彼等の和平グループへの反対への性向を幾分でも弱めたかというと若干疑いなしとしない。

 和平への努力は8月9日の御前会議で最高潮に達する。この会議は10日の未明まで続けられたのだが、畢竟原爆の投下とソ連の対日宣戦布告でこの舞台がしつらえられた。この会議で天皇は再び慣例を破って発言し、ポツダム宣言受諾の希望を明瞭にのべた。

 この時政府部内の高官たちの間に辛辣な皮肉(a quip)が飛び交った。「原爆こそ本当の神風(Kamikaze)だ。これ以上の無益な殺戮と破壊から日本を救ってくれたのだから。」原爆の中に、日本政府は、模索していた機会、すなわちポツダム宣言受諾問題に関して乗り上げていたデッドロックを打ち破る機会を見いだしたと言うことは明白だろう。

(* これでこの項が終わる。奇妙なことにこれだけの書き手が、天皇制維持問題-国体護持-に全く触れていない。トルーマン政権内部でも、日本が降伏する絶対条件が「国体維持」にある、と言う認識があった。8月9日のポツダム宣言を受け入れる会議-最高戦争指導会議と御前会議が切り替え、切り戻しで延々続いていた-でもポツダム宣言受諾にあたっての最大の問題とされた。結局ポツダム宣言に、「天皇制を廃止する」と書いていないことに着目して-多分口頭で第三国を通じてアメリカの意向は伝えられていたと思うが-「天皇制を維持できるという理解の下に」ポツダム宣言を受け入れる。ソ連参戦と並んで大きなファクターをこの書き手はあえて知らぬ顔を決め込んでいる。それは恐らくこの報告書の公表時期に関係があるのだろう。46年6月と言えば、極東軍事裁判の起訴が4月29日、昭和天皇戦犯論がまだくすぶっていたころだ。この書き手はこの厄介な問題に触れないという触れ方をしたのだろう。)

(以下そのCへ続く)