そのB 放射線症、日本の士気、降伏への決断 (原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ large/documents/index.php?pagenumber=24&documentid=65&documentdate= 1946-06-19&studycollectionid=abomb&groupid=) |
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米国戦略爆撃調査 広島及び長崎の原子爆弾投下の効果 (The Effect of the Atomic Bombing of Hiroshima and Nagasaki) |
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何も分かっていなかった急性放射線症 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
放射線症 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生存者で見る限り、放射線の影響は、第一次核分裂生成物の誘導放射能(induced
radio-activity)や核蓄積物の残留放射能(lingering radio-activity)よりも核分裂の仮定で放出されるガンマ線の影響の方が大きい。
広島においても長崎においても核分裂物質が直接蓄積した場所ではポケット線量計は反応したものの、そのような場所では人的損害を引き起こすには不十分な程度の放射能だった。
同様に中性子と物質の相互作用から発生する誘導放射能が致死につながると確実にいえる証拠は見つからなかった。しかし爆発後数週間たって影響のあった地域を連合国の誰も観察していなかったにも関わらず、ガンマ線による人体への損傷の証拠は見られた。なおここでいうガンマ線は一般的な意味で使っており、すべての高周波放射線や中性子なども含んでいる。 放射線による人体への損傷に関する我々の理解は不完全なものである。幾分、動物の体内組織に対して放射線がいかに影響するかについては、基礎知識は持っている。マンハッタン計画のロバート・ストーン博士の言では、 「生体組織に対する放射線の作用に関する基礎的なメカニズムは分かっていない。従って治療の方法論はすべて、原因療法的というより対症療法的である。(symptomatic rather than specific.)このため、放射線の作用の基礎的性質に関する踏み込んだ研究は、ある程度まで進んだものの、第二次世界大戦中得られためざましい結果は、不幸にも極めて限定されたものであった。」
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白血球の減少、骨髄の退化、粘膜の炎症 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本側によれば、爆心地にいた人たちで閃光火傷や二次負傷を受けなかったが、2−3日以内に容体が悪くなった人たちがいた。出血を伴った下痢が続き犠牲者のうちあるものは発症してから2−3日で亡くなった。大部分は1週間以内に亡くなった。検死の結果、血液像(blood picture)に著しい変化見られ、白血球がほとんどなくなり、骨髄の悪化(deterioration of bone marrow)が見られた。また喉、肺、胃、腸の粘膜(mucous membranes)は急性の炎症(acute inflammation)を起こしていた。 さらに遠く離れた(地域に)いた人の大半は、爆発の1週間から4週間の間は、深刻な症状を見せなかった。とはいえその後ずっと弱まったり、虚弱になったりはしていた。1日か2日の軽い吐き気や嘔吐(mild nausea and vomiting)のあった後、食欲が回復し気分が良くなるのだが、ずっと後に本格的な症状があらわれた。日本の医師たちの意見では、(このような人の中で)休息を取ったり体力をより消耗しなかったりする人たちは、本格的な症状が発症するのにより長い期間がかかった。再発の最初の兆候は食欲減退と倦怠感、それに漠然とした不快感である。歯茎、口、咽頭(pharynx)の炎症がそれに続く。12時間から48時間以内に発熱がはっきり見られる。多くの例では熱は華氏100°(摂氏37−8° C=5/9(F−32))までしか上がらず、2−3日すると下がる。他には体温が華氏104°から106°(摂氏40°から41°)まで上がるケースもある。熱の出方は明らかに放射線被曝の程度に直接関係している。いったん進行すると、熱はずっと高いままで、やがて死亡するまで続く。もし熱がさがったら、他の症状は急速に消え去り、健康を回復したような良い気分を取り戻す。通常その他の症状としては次のようなものがある。白血球の欠乏、脱毛、歯茎の炎症または壊疽、口と咽喉の炎症、下部消化器の潰瘍(ulceration of lower gastrointestinal tract)、ちいさな青黒い痣(点状出血)(petechiae)、これは粘膜や皮膚組織に血がたまるために起こるものだが、歯茎・鼻・肌へのさらに大きな出血。 脱毛は、いくつかの例で被曝の後4−5日で見られたと言う報告はあるものの、通常2週間後にはじまった。これに関係する部位を、被曝の程度によって並べると次のようなものになる。頭皮(scalp)、腋(armpits)、あごひげ、陰部(pubic region)、眉。完全な脱毛はまれである。体の関係部位を顕微鏡で研究すると毛嚢の萎縮(atrophy)が見られた。生存者のうち2ヶ月後の患者の中には再び(毛が)生え始めたものもいた。興味深いがまだ未確認の報告では、黒い髪の人より白髪の人の方が脱毛はより顕著でなかった。 循環血液中の白血球の数の減少は、放射線病に常に付随している。他に放射線の影響が見られない軽い場合でも(白血球の数の減少は)見られる。白血球減少症(leukopenia)の程度は恐らくその人が被曝した放射線のもっとも正確な指標となるだろう。通常白血球は5000個から7000個である。白血球減少症ではこれが4000個以下になる。さらに重篤なケースではこれがゼロから1500個のあたりになる。これは骨髄がほとんど完全に消滅したのに等しい。中程度重篤のケースで骨髄退化の証拠があり、白血球は1500個から3000個。それよりさらに軽いケースで白血球が3000個から4000個、このケースでは骨髄が若干退化変質している。赤血球を形成するシステムの変化はその後で進行するのだが、同様に深刻である。 まだどのくらい影響するかははっきりしていないものの、放射線は明白に再生に影響を与えている。生殖不能症(sterility)は日本全体に見られるが、特にここ2年間の状況の下ではこれが当てはまるのだが、広島と長崎では放射線(被曝)に原因を帰すべき増加の兆候がある。爆心地から5000フィート(約1500m)以内にいた男性の3ヶ月後に関する精子数あるいは完全な無精液症。 (* 奇妙だがここは文章になっていなくて体言止めになっている) 放射線病で死にかけているケースでは精子形成(spematogenesis)に明白な影響が見られる。放射線による被害者の検死で、卵巣に関する研究はまだまとまっていない。しかし、妊婦に関する原子爆弾の影響については注目している。爆心地から3000フィート(約900m)以内にいた妊娠の様々な段階にいた婦人は、知られているすべてのケースで流産(miscarriages)した。6500フィート(約1590m)までですら流産するかまたは未熟児だった。未熟児は生まれるとまもなく死亡した。6500フィートから1万フィート(約1590mから3000m)までのグループでは1/3が明白に普通児だった。(原爆の)爆発後2ヶ月目、広島市の流産、堕胎、未熟児の発生率は27%だった。通常では6%である。放射線被曝意外の要素がこの発生率を上げているから、(人口)再生産における大量被曝の影響を突き詰めるには、1年間の通したデータが必要である。 |
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「原爆の皆殺し効果と陰険なガンマ線」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本側による犠牲者の治療には、医療品や医療施設の欠乏などの理由により限界がある。彼等の療法は少量のビタミン剤、肝油、そしてときおり行われる輸血などから成り立っている。連合国の医師はペニシリンや血漿(plasma)を使用しており、有益な効果を上げている。肝油は投与された患者のうちいくらかは効果があるように見える。手に入る時には投与するが、それもあまり頻度が多くない。死亡者の大きな部分は二次的な疾病、敗血性気管支肺炎(septic bronchopneumonia)や結核(tuberculosis)などで占められている。抵抗力が低下している結果である。放射線による死亡は被曝のおよそ1週間後にはじまり3−4週間後にはピークを迎えた。7―8週間後には、事実上(放射線による死亡は)止まった。 不幸にして、放射線のいったい何が人を殺す力なのかが分かっていないし、コンクリートの種類や厚みについても満足のいく答えは見いだせていないし、人々を防御すべき土もなかった。合同委員会(* 医師団による原爆調査合同委員会のこと)によるもう少し特定した報告がこれらの案件についてほぼ精確にちかいことを述べてくれるだろう。その間しばらくは、原子爆弾の恐るべき皆殺し効果とガンマ線という余計で陰険な災危自身に語らせておく他はない。
もし原爆投下による爆風と火災の影響が全くなかったと仮定しても、爆心地から半径1/2マイル(約800m)における死者の数は実際の死者の数と同じくらい大きかっただろうし、また1マイル(約1600m)以内の死者は実際の死者の数より若干少なかったに過ぎないと信ずべき理由がある。主要な違いはいつ死亡したかと言う問題だけだろう。これらの犠牲者(victims!)は、無条件に死亡する替わりに、2−3日あるいは3−4週間生きながらえることが出来たに過ぎない。事実上は、放線病によって死ぬだけだったのだから。
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「それでも10%は救えたかも知れない」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これらの仮定は生々しい重要性(vital importance)をもっている。というのは実際に長崎でも広島でも多くの人々が爆風や火災からは建造物などで保護された。しかしガンマ線の影響からは何も保護できなかったからである。放射線熱やガンマ線に対して防御する必要性が、(原爆に対する)シェルター保護の問題をさらに複雑にしているのである。幸いにして土やコンクリートがガンマ線に対して防御効果があることが分かっている。必要な厚みは放射線の強さによる。 日本側による、犠牲者に対する遅れ遅れの不適切な治療が、恐らくは高い人的損害率につながっている。原爆の後すぐに医療施設、医療用品、医療人員が手当できたなら疑いようもなく多くの人たちを救えたろう。恐らくはまともに爆風を受けたり、火炎負傷で死亡した人の数、崩壊する建物の下敷きになって深刻な負傷を負った人の数は大きく違わなかったかもしれない。一般的にいってこれらのケースでは無条件で死ぬかあるいは生き残るかだったのである。(しかし)多くの閃光火傷の場合は、被爆の2−3時間以内に適切な治療を開始しておけば、大量の血漿や点滴(parenteral fluids)などで、多くの人を救えただろう。またもっともめざましい効果を発揮したのは放射線病のケースだったろう。大量の血液と適切で効果的な治療があれば、放射線で亡くなった人のうち10%から20%は生存できたかも知れない。しかし、たとえ最高の医療手当を受けたとしても、原子爆弾死亡者全部の10%が死から免れ得たかというと疑問である。5%から8%と言うところが近いだろう。 (* これで「放射線症」の項が終わっている。) |
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心と体の傷に目が向かない調査団報告 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2.士気 |
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あるいは予期していたように、原爆に対する最初の反応は恐怖である。それも制御しがたいおののきである。生存者たちが経験し目撃した苦しみあるいは破壊がもたらす絶対的な恐れによって強化されていった。広島と長崎で聞き取りを行った人のうち1/2から2/3までがそのような反応を告白している。それもその時(原爆投下の時)だけではなく、その後ももった反応である。2人の生存者は次のようにいっている。
すでに述べたように、原爆の後の人々の生活態度は明らかに救いようのないほどのショック状態を示している。ある長崎の生存者は十分に生存者の雰囲気を伝え次のように描写している。
2つの典型的な衝動が見られる。無目的、ヒステリーですらある。またはシェルターや食べ物を求めての市内からの脱出である。
これら一連の原爆が持つ特徴的な効果は、驚愕や彼等の押し潰された力に由来するだけでなく、攻撃前の両市の住民たちが抱いていた安全性に対する感情にも由来している。 (* おそらく書いている本人も自分が何を言っているか分かっていないだろう。) 長崎がそれまでの1年間に5回の空襲を受けたとはいえ、さほど大きな打撃は受けなかった。そして広島は1945年8月6日の朝まではほとんど無傷だった。両方の市において多くの人たちは、自分たちは(空襲から)除外されていると感じ、そして幅広い希望的観測の気持ちを裏付けるようないろんな噂が飛び交っていたのである。また多くのキリスト教徒もいた。 AUSSBS士気調査部(A United States Strategic bombing Survey Morale division。*Moral divisionの間違いじゃないかと思うのだが。)のチームは、科学的に選別した、ほぼ250人にのぼる聞き取り調査を実施した。128人が広島と長崎から選別し、120人が直接両市に接している地域からである。また同じ基準の質問を用意して日本の代表的な都市と同様な地域に住む人々に対して実施した。 多くの日系アメリカ人が広島からやって来た、広島市は有名な美しいところだった、こうした話やその他のまだ素晴らしい話がこうした希望を助長していた。他の人たちも彼等の町が偉大だから救われているのだと何となく感じていた。 |
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報告書の非人道的な本質 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
あの破壊的な出来事がこうした、人々の考え方に一撃を与えずにはいられなかった。戦争に対する人々の信じ方のパターンに関する研究は、原爆投下の前と後で、明瞭な変化があることを示している。原爆投下の前、この2つの投下目標都市に住む人々は、他の都市に住む人たちより戦争に対する不安がより小さかった。1945年7月1日以前、日本の民間人がどう感じていたかは以下の質問に対する反応でよく表されている。
さらに、全体で日本の人の28%が戦争にこれ以上ついていけないと感じる点に逢着したことがないと言っている。これに対して広島・長崎の人の39%がそういう点に逢着したことがないといっている。 こうした数字は原爆が落とされた市に住む人たちの方が、日本全体の人より抗戦しようという気持ちが強かったことを明らかに示している。 広島と長崎に住む人々が敗北は不可避的だと考えるに至った決定的影響は原爆(投下)から受けたという点は疑いようがない。このほかに28%の人が原爆投下後、日本の勝利は不可能だと確信するに至ったと述べている。ほぼ1/4の人が原爆投下によって、個人的にも(戦争)継続は不可能だと感ずるに至ったと認めている。40%の人が原爆投下で様々な程度で「敗北主義」を誘発されたと証言している。極めて特徴的なことは、長崎より廃墟の範囲が大きくまた人的損害も大きかった広島の方が敗北に対する確信が顕著だったということだ。 典型的には次の生存者のコメントである
また別な反応も見られる。さして重要ではないが、彼等の経験に鑑みてある生存者たち(約1/5)は原爆を使用したアメリカ人を憎んで、「残虐」「非人道的」「野蛮」という言葉で怒りを表明した。
憎悪や怒りの反応は驚くにはあたらない。実際のところ数字が示すよりもこの感情はもっと幅広いものだといってもいい。というのはこの質問に対する回答者たちは、恐れや慇懃さを脱した形で、虚心坦懐に自身の感情を吐露しているわけではないからだ。この要素にもかかわらず、敵対感情の波は小さいように思える。回答者の2%は自ら進んで原爆を使用したことでアメリカを責めようとは思わないという所感を表明した。確かに日本が原爆をもてなかったことをいぶかしく思うという人もいたが、降伏の前であれ、後であれ、彼等の敵対感情が自国政府に向かって発せられている証拠もある。
多くの例で、反応は単純にひとつのあきらめだった。共通したコメントは「戦争なのだから、それはshikata-ga-nai。」 |
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恣意的な収集データの解釈 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
原爆に対する憧憬は怒りよりしばしば表明された。目標とされた都市とその周辺に住む人の1/4以上はその力とそれを発見し製造した科学技術力に対して感心すると表明している。 さらに重要なのは、日本人全体の反応である。2つの原爆投下は全日本的事件であり、またそう意図されたものだった。連合国の戦力は、単に広島や長崎の人たちに止まらず、日本の人たちとその指導者の戦意を挫こうとしたものである。降伏の時に原爆のニュースは日本の隅々にまでつたわってはいなかったとはいえ、事実上すべての日本人が原爆に対して反応をしめす機会があった。この面接が実施される時まで、農村部人口のわずか2%、都会部のわずか1%の人が原爆のことを知らなかった。 原爆を投下された町における反応はまた日本全体の反応でもあった。恐怖とおののき、原爆の使用者に対する怒りと憎悪、そしてさして大きくはないものの、その科学的業績への憧憬。
しかしながら、日本全体の戦争への姿勢という観点から見ると原爆の効果は、広島や長崎におけるそれと比較して遥かに低かった。広島や長崎における回答者の40%が敗北主義者的感情になったのに対して、日本全体では28%だった。この違いには最低でも3つの説明が可能であろう。第一、原爆投下以前から日本では(この戦争に対する勝利への)自信が低かった。戦争の勝利に対する疑念は、1945年7月1日までに、日本人全体の74%まで広がっていた。また同じデータで日本の勝利は不可能と確信するに至った人は47%で、またこれ以上戦争遂行について生けないと感ずる人は37%だった。このような状況の下で、新しくまた破壊的な兵器の発表は、すでに雄弁に語られている日本の弱点に関する、単に追加的証拠に過ぎなかった。二番目に、広島、長崎から距離を置いた人たちはすでに他の不幸や困難で、原爆の経験に対する反応が鈍らされていた。心理的距離は地理的距離と共に大きくなるという共通現象である。たとえば、日本全体では軍事的損失や失敗、たとえばサイパン島、フィリッピン諸島、沖縄、などの方が原爆より2倍の重要性を持って敗北に対する確信を深めさせた。こうした観点で見れば、日本全体では、日本への空襲の方が(原爆より)3倍も重要だった。消費物資の欠乏、たとえば食糧不足や栄養不足の方が、人々をこれ以上戦争についていけないという気分に導くのに、同様程度に重要だった。
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原爆の人類史的意味が理解できない調査団 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三番目に、目標とされた地域から離れたところにいる人々には、この新兵器の意味を理解出来なかった。疑いようもなくこの新兵器のデモンストレーション効果が限定されていた。
目標とした都市(広島と長崎)から距離が離れるに従って、原爆の持つ(日本人の)敗北主義に与える影響が著しく減少するのである。
もっとも近い都市群、広島と長崎から40マイル(約64Km)以内にある都市群だけが「士気」に関して有意味な影響を与えていたことになる。もし日本におけるマスコミのチャンネルが確立しており、アメリカで見られるようにニュースが早く伝わる体制が日本でも確立していたとするなら、そして原爆の使用の持つ意味が日本でも強く知らされていたなら、戦争を継続しようという気持ちに対する原爆の影響は恐らくはさらにおおきかったであろう。
日本人全体の自信に対して原爆が与えた影響は極めて地域限定的だったという点は明白である。目標地域以外の地域では、それ(原爆の士気に与える影響)は、他の士気を挫く経験より下位に置かれていた。原爆が与えた影響は恐らくその人的損害の数や受けた負傷の性質などの大きく見られるのだろう。
これらの結論は、驚愕と急いで作った防衛システムの脆弱性(vulnerability)の一部として帰結したものである。適切に実施される警告、事前警戒、原爆の効果に見合った規模の緊急手当組織の存在などなどは、人的損害を減じ得たかも知れずまた従って原爆の(日本人の)士気に与えた影響も減じ得たかも知れない。 目標とした都市に置いてすら、原爆が日本人の戦意を一様に挫いた訳ではないと言うことは強調しておかねばならない。広島・長崎と他の日本の諸都市を比較して見たとき、広島・長崎が平均より上回る敗北主義であったとはいえない。原爆は生存者にとって極めて大きい個人的なカタストロフであった。しかしこの個人的カタストロフの中に、「日本勝利への期待」や「交渉による和平への希望」を打ち砕く最後の一撃を見いだしたかというと、原爆の持つ革命的脅威への理解また時間軸の観点から見て、そうとはいえない。 |
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冷静な分析―降伏への過程 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3.日本の降伏の決定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本の指導者層に戦意及び戦争放棄の決定に与えた原爆の影響のさらなる問題は、その他の因子と密接に結びついている。原爆は、投下目標地域以外の各階層の民間人の戦意に与えたのより、日本政府の指導者層の考えにより大きな影響を与えている。しかしながら原爆が、降伏による平和必要性に影響力をもっている指導者層を得心させたかというとそういうことは出来ない。降伏への決断は部分的には、一般民衆の士気の一番低い状態に関する知見に影響を受けており、6月26日に天皇臨席のもとで開かれた最高戦争指導会議にその最初の決断を見ることが出来る。 しかしもちろん政府関係者の影響力のある人たちの合意を得るには至らなかった。 1944年の春までには、前・元首相たちと天皇側近の人たちがグループを結成し、戦争を終結に導こうという努力がなされていた。このグループのメンバーは岡田大将(* 詳しくは以下)、米内大将(* 詳しくは以下)、近衛殿下(* 詳しくは以下)、木戸侯爵(* 詳しくは以下)などを含んでいる。このグループは東条辞任に影響力を発揮し、小磯内閣崩壊の後鈴木大将を首相にした。
しかしながら、鈴木内閣の下でも、(戦争終結の決断に関し)内閣は全員一致というにはほど遠い状況だった。海軍大臣だった米内大将は戦争終結に同意していたが、陸軍大臣の阿南将軍は、「最後の一兵まで聖戦を完遂する」政策を代表していた。
阿南の聖戦完遂の信念は、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長の最高戦争指導会議への参加で保証されたものとなったかに見えた。最高戦争指導会議は、一種の閣内会議のようなものだが、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が閣外からメンバーに加わっている。平和問題に関する限り、最高戦争指導会議はまっぷたつに割れることになった。和平賛成派は首相(鈴木貫太郎)、外務大臣(東郷重徳)、海軍大臣(米内光政)の3人だった。
いつの時点でも軍部(特に陸軍)は内閣に不満であり、内閣を倒閣に追い込むことが出来た。そしてできることなら戦争継続反対派の閣内からの一掃も結果として招来しようとしていた。従って政府部内の和平推進派のリーダーたちが直面する問題は、陸軍大臣の躊躇と陸軍参謀総長と海軍軍令部長の反対を押さえて「降伏」の方向へ舵をきることにあった。
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降伏への第一歩は6月26日御前会議 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しかもこれは、完全に和平グループを一掃しようとする陸軍のがむしゃらな(precipitating)反撃をさけて遂行されなければならなかった。これは究極的には天皇を事実上ポツダム宣言受諾の方向に引き入れることによって実現した。天皇が公然とそのような政策に対する支持を表明し、国に向かってその所信を披瀝するなら、軍部は反抗できなかった。天皇に対する絶対服従の観念を涵養しそれと共にやってきたのは他ならぬ軍部だったのである。 そのような方向への第一歩が、6月26日の御前会議だった。その会議に置いて天皇は自分の役割を果たし、慣習を破って本土防衛に関する計画と共に戦争終結へ向けて進展させたいとする意向を述べたのである。これはそれに先立って行われたソビエトにアメリカとの仲介をしてもらおうという努力の焼き直し版をなぞったものだった。これに対する実効的な回答が7月26日のポツダム宣言であり、8月9日のソビエトの対日宣戦布告だったのである。 原子爆弾は日本政府内でのこうした一連の政治的策略の実施(political maneuvering)を加速させるものだったと考えられる。これはそれ自身部分的には、士気に与える影響の一部だった。というのは閣内のメンバーがそれ以上の原爆投下を、特に東京の焼け残った部分に対する原爆投下を恐れていたという明白な証拠があるからである。
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原爆は陸軍のメンツを救った | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
原爆そのものは軍部をして、本土防衛は不可能と悟らせることは出来なかった。しかしながら、政府をして「武器のない軍隊がどうやって武器を持っている敵に抵抗できるんだ」と言わしめることはできた。このようにして原爆はいわば軍部指導者のメンツ(“face”)を救ったのである。それは決して日本の産業家たちの財産のことを考えた訳でもなければ、日本の兵士たちの武勇のことをおもんばかったためでもない。 最高戦争指導会議での採決は依然として二つに割れた。無条件降伏を陸軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長の3人が受け入れなかったためである。しかしながら広島、長崎への原爆投下が彼等の和平グループへの反対への性向を幾分でも弱めたかというと若干疑いなしとしない。 和平への努力は8月9日の御前会議で最高潮に達する。この会議は10日の未明まで続けられたのだが、畢竟原爆の投下とソ連の対日宣戦布告でこの舞台がしつらえられた。この会議で天皇は再び慣例を破って発言し、ポツダム宣言受諾の希望を明瞭にのべた。 この時政府部内の高官たちの間に辛辣な皮肉(a quip)が飛び交った。「原爆こそ本当の神風(Kamikaze)だ。これ以上の無益な殺戮と破壊から日本を救ってくれたのだから。」原爆の中に、日本政府は、模索していた機会、すなわちポツダム宣言受諾問題に関して乗り上げていたデッドロックを打ち破る機会を見いだしたと言うことは明白だろう。
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(以下そのCへ続く) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||